三人三様の夏目漱石。『文(かきことば)』第2期第1回

もう何年も前から参加したいなあと思いながらも、いつも開催日が平日だったため、結構ハードルが高かった『文(かきことば)』。
しかし今回はなんと、休み前の開催ということで「やったね!」。
会社をダッシュで退社して、都内某所に向かったのでした。

初めてお伺いする会場は、プライベートなスタジオなんですよ。
もうすでに集まっている観客に混じっておずおずと「お邪魔します」。
どこかアヤシゲな空気が漂うアングラな雰囲気のもとで、シークレットギグは開催されたのでした。
うわー、うわー、楽しいなあ、面白いなあ......と浮かれポンチだったのは最初まで。
始まってしまったら「何じゃこりゃ!」
その圧倒的な迫力に、もう観る側としても息を飲むしかありません。
目の前で繰り広げられるパフォーマンスに、我々観客ですら息苦しさを覚えるほどなのです。

この『文(かきおことば)』とは、夏目漱石『夢十夜』を題材にしたものなんですね。
まず一篇を演者が選び、後はひたすらその物語を構成している文章をすべて解体していく作業なのだとか。
文節まで徹底的に解体された文章は、そこに演者自身が意味を見いだしていき、そして、その意味を被せていきながら再構築を図る、そんな作品です。

ぼく自身は、『夢十夜』という作品は非常に淡々とした筆使いで、「こんなー、ことがー、あったー」と常田富士男のナレーションのような雰囲気を湛えた作品だと思っていたのですね。
そもそもが「夢」の話ですから、語り手は、あくまで観たままを語るしかできないのです。
それがこの淡々とした物語の特徴だと思っていたのです。

なのに......激しい。重い。
淡々としているのはあくまで表面上、見せ掛けだけで、そのように思った時点ですでに夏目漱石の術中にハマっているのではないでしょうか。
『夢十夜』という作品が持つ本性は、巧みに構成された文章を徹底的に解体しないとまったく姿を見ることができない、そんな気がしたのでした。

「第七夜」木引優子 澄井葵
デュオによる発表。
セリフ回しをユニゾンすることで、その部分部分の印象が鮮烈に残ることに驚きました。
この効果、そういえばテレビでの字幕表示に似ていますね。
出演者が何かを言ったことを字幕に映しだすことで、その言葉を視聴者により印象付ける、あの効果。
最近のテレビ番組で、「どうしてセリフに字幕をつけるのか」と思っていたのですが、ははあ、なるほど、と。
きっと番組製作者も、視聴者にこの効果を狙いたかったのではないでしょうか。
セリフ回しをユニゾンすることで、その場面場面が浮き上がってくるかのような印象だった「第七夜」

「第四夜」青山るりこ
セリフ回しに動作が伴うことで印象が強烈に残る体験を目の当たりにしてしまいました。
老人が笛を吹くシーンですが、演者のその動きとこちら側で感じた印象がそれだけ強烈だったからか、その後ずっと頭のなかで老人が笛を吹く姿が離れなくなってしまい、もう大変なんです。
歌が頭のなかでグルグル回って離れなくなったという体験はよくあるのですが......。
笛を吹く老人のシーンが強烈な印象となって残ってしまった「第四夜」

「第三夜」矢口恵子
ぐはっ! 最後の最後にとんでもないモノが出てきました。重いのです、重い。メチャクチャ重い。ヘビー級チャンピオン並みの重さがたっぷり。
「第三夜」は、前半はファンタジー色をすら感じさせるほどに淡々とした物語なのですが、ラストでその印象はがらりと姿を変えます。
演者はその物語の変調から逃げることなく真っ向勝負、真っ正面から取り組んでいるのです。
その結果、かなりの凄まじさを感じさせる作品が生まれてしまったようなのでした。
ラストの鬼気迫るその姿に、思わずサブイボが立ってしまったのでした。
それまでの調子がクルリと入れ替わるラストの変調に、思わずサブイボが立ってしまう「第三夜」

演目が終わるとお茶会です。
皆で持ち寄ったお菓子やお茶を、サラリーマン野郎が1人でパクパク、ゴクゴク。
アツカマシイったらありゃしません。
そうこうしているうちに、フト時計を見ると「......! 電車がなくなる!」。
演者の皆さんに感想も述べることなく、どこまでも失礼野郎のぼく。
口の周りにシュークリームのカスタードをでろーんと付けたままで「失礼しますっ!」と慌てながら最寄り駅にゴウ!
そこから乗り継ぎ、乗り継ぎ、また乗り継ぎで家に向かったのですが......オオウ。
最後の乗換駅ではもう時刻は最終電車が出た後なんですよ。
「こりゃタクシーかな。でもここからだと高く付きそうだな」......と思っていたら、ラッキー!
電車が5分ほど遅れているらしく、駅員が「まもなく最終電車が来ます」。
無事、家に戻ることができたのでした。